はじめに:胸元にスマホをかざしたファン
ある試合の日、一人のファンが自分のユニフォームの胸元にスマートフォンをかざした。画面に表示されたのは、選手のハイライト映像と、公式グッズの割引クーポン。彼が身につけていたのは、ただの服ではなかった。
舞台はブラジル。サッカークラブのアトレチコ・ミネイロは、特別仕様のユニフォーム約12万着に、NFC(近距離無線通信)のタグを組み込んだ。スマホをかざすだけで、ユニフォームとスマホがつながる仕組みだ。
この記事では、このユニフォームがなぜ作られ、ファンにどう使われ、何を生んだのかを順にたどる。そのうえで、「ファンがまた戻ってくる理由」を、私たちはどこまで測れているのかという問いを考えてみたい。
1. 約12万着のユニフォームに縫い込まれたもの
アトレチコ・ミネイロは、地元で「ガロ(雄鶏)」の愛称で親しまれるクラブだ。そのクラブが2021年、特別仕様のユニフォーム約12万着すべてにNFCタグを組み込んだ。ブラジル国内で初めて販売された「スマート・ジャージ」とされている。
NFCは、交通系ICカードやスマホ決済と同じ、近い距離で情報をやり取りする技術だ。ユニフォームの中のタグにスマホを近づけると、そのユニフォームの専用のページが開く。持ち主は特別な機械を用意する必要がなく、手元のスマホだけで使える。
このユニフォームの見た目は、ふつうのユニフォームと変わらない。変わったのは、服とファンとクラブの間に、目に見えない「つながりの線」が1本引かれたことだ。この線が何に使われたのかが、この話の中心になる。
2. 始まりは「偽物対策」だった
なぜ、布にタグを仕込むという発想に至ったのか。きっかけは、ファンの熱狂そのものが生んだ「困りごと」だった。人気クラブのユニフォームは、公式グッズの市場が大きくなるほど、模造品も出回りやすくなる。本物を買ったファンにも、「これは本物なのか」を確かめる手段がなかった。
クラブと技術パートナー(collectID社)が出した答えが、「服自体に本物であることを証明する機能を持たせる」というものだった。ユニフォームにスマホをかざせば、それが正規品であることが確かめられ、持ち主として登録もできる。ここまでは、いわば「偽物対策」としての合理的な技術への投資だ。
ここで押さえておきたいのは、この仕組みが最初から「ファンを楽しませるため」に作られたわけではないという点だ。出発点は、ブランドを守るという、かなり地味で守りの動機だった。この順番が、後の展開を読むうえで大切になる。
3. 想定外の使われ方:タップが「チェックイン」になった
ところが実際に導入してみると、想定していなかった使われ方が生まれた。真贋を確かめるのと同じ「かざす」という動作が、試合の日の「チェックイン」にも使われるようになったのだ。
試合の日にユニフォームにスマホをかざす。チャレンジに参加する。そうした行動でポイントが貯まり、そのポイントはクラブの公式アプリの中のランキング(リーダーボード)に反映される。誰が一番熱心に参加しているか、ファン同士の間にちょっとした競争と連帯感が芽生えた。ポイントは、クラブの商品や提携先の特典とも交換できる。
クラブのイノベーション担当者は、このユニフォームを「生きているジャージ」と呼んでいる。タグの先のページには、後から新しい機能やコンテンツ、クーポンを足していける。一度売ったら終わりだったユニフォームが、売った後もクラブとファンをつなぎ続ける「窓口」になったということだ。
Brazilian football club Atlético Mineiro lets fans authenticate special edition jerseys with NFCNFCW
4. 数字で見る「入り口」としてのユニフォーム
結果として何が起きたか。報告によると、このユニフォームをきっかけに、クラブの公式アプリの新規ダウンロード・登録が1万5000件生まれた。これは、ユニフォームを買った人の12.6%にあたる。「偽物を見分けるための技術」として始まったものが、気づけば「ファンをアプリの世界に呼び込む入り口」になっていた。
この数字を読むときには、いくつか注意がいる。まず、12.6%は「ユニフォームを買った人全体」に対する割合であり、タグを使った人の中での割合ではない。また、この数字はクラブと技術パートナーの側が公表した事例の紹介にもとづくもので、外部の研究者が検証したものではない。
それでも、この数字には意味がある。クラブの公式アプリは、多くのクラブにとってファンと直接つながる大切な場所だが、ダウンロードしてもらうこと自体が難しい。ユニフォームという「ファンがすでにお金を払って手に入れたもの」を入り口にしたことで、アプリへの最初の一歩のハードルが下がったと読むことができる。
5. 30年前から続く「見える化と報酬」
こうした「行動を記録し、報酬に変える」という発想自体は、実は目新しいものではない。アイスホッケーのリンクでは、1990年代に、5回買うとソフトドリンクが1杯無料になる紙のパンチカードが配られていた。
2000年代半ばにはバーコードのスキャナーが導入され、売店での購入をリアルタイムで追えるようになった。ユニフォームを買った人への座席のアップグレードや、シーズンチケットを持つ人だけのロッカールームの見学といった、より複雑な報酬の設計も可能になった。そして今は、NFCやアプリがその役割を担っている。
技術は紙からバーコード、そしてNFCへと変わった。しかし、「参加を見える化し、報酬でつなぎとめる」という本質は、この30年ほとんど変わっていない。変わったのは、記録できる行動の細かさと、その記録がファンの手元のスマホにまで届くようになったことだ。
6. 回数の向こう側にあるもの
面白いのは、この「見える化」が向いている先だ。クラブが本当に知りたいのは、「誰が何回来たか」という回数だけではないのかもしれない。ユニフォームにスマホをかざすという小さな行為の裏には、「このチームにどれだけ自分を重ねているか」という、もっと感情的で、もっと測りにくい何かがある。
回数だけを追いかけていると、たまたま今シーズン調子が良いから来ている人と、10年間ずっと変わらず来ている人を、同じ1カウントとして扱ってしまう。チームの成績が落ちたとき、どちらが戻ってくるかは、回数のデータだけでは分からない。
ランキングやポイントも同じだ。それはファンの行動を後押しするが、なぜその人が行動したのかまでは教えてくれない。ポイントのために来ている人と、チームが好きだから来ている人では、報酬の仕組みが変わったときの反応も違うはずだ。
おわりに:「なぜ戻ってきたのか」を測る
偽物対策として始まったユニフォームのタグは、ファンとクラブをつなぐ入り口になった。この事例は、技術の価値が、作った人の当初の狙いとは別のところで見つかることがあるという、よい例でもある。
技術が「かざす」という行為を記録することは、簡単になった。記録された回数やポイントは、ファンの熱心さを示す一つの手がかりにはなる。しかし、それはファンの心の中を直接示すものではない。
次に問われるのは、その行為の裏にある「なぜ、その人はまたここに戻ってきたのか」という問いに、どこまで本気で向き合えるかだろう。回数を数えるだけでなく、ファンがチームに自分をどれだけ重ねているのかを確かめる。そうした測定も必要ではないだろうか。